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結婚指輪・婚約指輪なら、The World’s Most Beautiful DiamondⓇ “世界で最も美しいダイヤモンド”、ラザール ダイヤモンド

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LAZARE KAPLAN'S STORY

ラザール ダイヤモンドの創業者、ラザール・キャプランの軌跡を辿ります。

目次
◆ 1.偉大なダイヤモンド・カッターの誕生
◆ 2.結婚。そして悲劇
◆ 3.人々は、彼を「クレイジー」と言った
◆ 4.新天地、プエルトリコへ
◆ 5.ヨンカーダイヤモンドの奇跡
◆ 6.GIA設立に大きく貢献
◆ 7.ラザール・キャプランが遺したもの

ラザール・キャプランの軌跡

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~Since 1883~
世紀を超えて今なお輝く、The World's Most Beautiful Diamond. ®。
世界で最も美しいダイヤモンド。それは、たった一人の男の情熱から生まれました。彼の名は、ラザール・キャプラン。ラザール・キャブラン社(ラザール ダイヤモンド)の創設者です。今日では良く知られるアイディアルメイクという理想的なカッティングを実践し、世界のカッターや名だたるジュエラーから世界最高峰の輝きThe World's Most Beautiful Diamond. ®と惜しみない賞賛を受けています。
また、ダイヤモンドの世界品質基準「4C」 についてもカットの重要性を説き、基準のひとつとしてカットを加えたのもキャプランの偉業のひとつ。
このように、ラザール・キャプランの人生は、まさにダイヤモンドの歴史といっても過言ではありません。1883年に生を受けてから一世紀以上、時を超えてなお輝きを増す、ラザール・キャプランのダイヤモンドを捧げた一生を辿ります。

第一章 ラザール・キャプランの軌跡

無情な運命に立ち向かった100年の軌跡。
100 years of pursuing his vision.

Chapter 1 The birth of a great diamond cutter. 偉大なダイヤモンド・カッターの誕生。
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ラザール・キャプランは1883年7月17日、ロシアの村に生を受けました。 就学前に10人兄妹のうち8人を疫病で亡くすという悲劇に見舞われました。その悲劇を心の奥底にしまい込み、父親と生き残った家族とともに、ベルギーのアントワープに移住します。
アントワープは15世紀からダイヤモンド産業の中心地で、研磨技術も世界最高峰。その技術の高さは、フランス王フランソワー世がパリの職人ではなく、アントワープの研磨工に依頼したほどです。
ラザール・キャプランは、アントワープでダイヤモンド研磨の技術を学びます。まだティーンエイジャーだった彼は、飛び抜けた才能を示しました。それもそのはず、曾祖父や祖父は宝石職人、父は時計職人であり、その才能は家族ゆずりでした。また、ラザール・キャプランの従兄弟は、“アイディアルメイク”として知られるダイヤモンドが最高の輝きを放つプロポーションを数学的に証明したマルセル・トルコフスキーだったのです。

1903年、ラザール・キャプランは弱冠20歳でカッティング事業を開始。22歳の頃には、アントワープで最も優れたダイヤモンド・カッターとして認められるようになりました。

Chapter 2 Marriage. And tragedy. 結婚。そして悲劇。
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ラザール・キャプランは、人生でニ度にわたって全財産を失うなど波乱な人生を送っています。そんな彼の人生において最大の幸福は、後に妻となるシャーロット・キットワーと出逢ったことかもしれません。
シャーロットは芸術や音楽を愛し、9ヶ国語を操るとても教養のある女性でした。彼はシャーロットを心から愛し、その証として最高の輝きを放つダイヤモンドリングを婚約指輪として贈ります。
シャーロットもまた彼を深く愛し、結婚後はどんなときも、ひたむきに家族に愛情を注ぎ、常に家族を支え続けました。
ラザール・キャプランはカッティングの仕事以外にも、シャーロットとともに、恵まれない子供たちのために財団を設立するなどの
事業も行っていました。慈愛に満ちたシャーロットの思い、そして正しいことを貫き通すキャプランの志。

The World's Most Beautiful Diamond. ® 世界で最も美しいダイヤモンドをカッティングする根底には、度重なる不幸に見舞われたからこそ、まわりにいてくれる人々への深い感謝と愛情があったからに違いありません。

Chapter 3 The people called him “crazy" 人々は、彼を「クレイジー」と言った。
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卓越したダイヤモンド・カッターとして腕を磨き上げたラザール・キャプランは1914年、31歳のときに渡米し、ニューヨークにラザール・キャプラン・インターナショナル社を設立します。その後、数学者で従兄弟のマルセル・トルコフスキーの58面体理論に基づいたダイヤモンドのカッティング「アイディアルメイク」を世界で初めて確立しました。
アイディアルメイクとは、現在では世界中の女性たちに愛されているラウンドブリリアントカットの理想的なカットのこと。
彼がこのカットを実現した当初はまわりから奇異の目で見られ、業界のほとんどの人が彼をクレイジーと考えていました。
そんな中でも、信念を貫いたキャプランは、アイディアルメイクの重要性について、次のような言葉を残しています。
「もし、大きさや重さを重視して原石をカットすれば、ダイヤモンドの模造品やガラスのような輝きが得られるだけです。適切な比
率のもとにカットされたダイヤモンドだけが、その本来の美しさを見せることができるのです。」

Chapter 4 Puerto Rico, the new land. 新天地、プエルトリコへ。
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彼がようやく事業を軌道にのせた頃、 米国が第一次世界大戦に参戦しました。すべてのカッター職人は、軍隊に奪われてしまったのです。すると、プエルトリコで働くエンジニアの従兄弟が、ラザール・キャプランにアドバイスをしてくれました。 プエルトリコでビジネスをやってみてはどうかと。
1917年当時、プェルトリコには、業種は何であれ、外国人が立ち上げた製造施設はたった2つしかありませんでした。
ラザール・キャプランはプエルトリコを旅して、やがてポンセという小さな町で、フランス語を話すホテルオーナーに出会いました。彼女はカッティング工場を立ち上げるための空き家の交渉や、最初の研修生たちを雇う手助けをしてくれたのです。
キャプランは彼らの覚えが早くとても勤勉であることを知り、早速、ベルギーのカッティング業者である3人の古い友人を呼び寄せました。新天地でのそれからの12年は、 とても大変でしたが、実りあるものでした。果たして、ラザール・キャプランは再びニューヨークに戻る事が出来ました。彼は息子のレオを会社に迎えました。レオは日中働き、夜学に通って勉強をしました。
ほどなく息子のジョージもビジネスに加わり、未来はバラ色で先の不幸など想像できないほどでした。

Chapter 5 Miracle of Jonker diamond. ヨンカーダイヤモンドの奇跡。
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そして1929年の世界恐慌が訪れました。ラザール・キャプランは再びすべてを失うことになります。
しかし、息子のレオがなけなしの300ドルを残していました。 ラザール・キャプランはこの300ドルを元手に、もう一度事業にチャレンジをしたのです。またしても、ラザール・キャプランのゴールデン・ハンドが彼を救うことになります。
1929年の世界恐慌後、最初の2、3年は誰にとっても一からの出発となる不安定なものでしたが、ラザール・キャプランのダイヤモ
ンド・カッターとしての優れた能力は、しだいに広く知られるようになります。
あるとき宝石商として有名なある人物が、原石726カラットもあるダイヤモンド、「ヨンカーダイヤモンド」を手に入れます。その宝石商はこのダイヤモンドのカッティングを、 ラザール・キャプランに任せることにしたのです。
それは、彼の馴染みのカッターたちのカッティング方法とラザール・キャプランのカッティングの方法がまったく異なっていたからでした。しかし、困ったことに、保険会社は、カットの際に起きたミスについては一切保障しないという結論を下しました。
ラザール・キャプランは決してミスの許されないプレッシャーに押しつぶされそうになりました。
発見当時ヨンカーダイヤモンドはこれまで発見された原石としては、世界で2番目の大きさを持つ、非常に貴重なものだったからです。アメリカに送られたダイヤモンドとしては最大であったことから、緊張感は最高潮に達していました。
ラザール・キャプランは1年の歳月をかけ、ヨンカーダイヤモンドを調査しました。綿密に調査し、一度そろそろ木槌を振り下ろして、ダイヤモンドを分けようとしたその時、 微細な節目を発見し、これまでの計算が間違っていたことに気づいたのです。そんなことを繰り返しながら、カッティングのための様々な専用の道具を開発し準備を整えていきました。
ラザール・キャプランは、「完壁な失敗か、完壁な成功か、その一打にかかっていた」と当時を振り返っています。
そして、見事ヨンカーダイヤモンドのカッティングに成功します。
誰もが失敗を信じて疑わなかったこの偉業によって、ラザール・キャプランは、これまでの人生で経験がないほどの名声を得ることになったのです。

Chapter 6 World Standard. GIA設立に大きく貢献。
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1931年、アメリカに宝石学の世界的教育機関、GIA (Gemological Institute of America)が設立されます。当時、 ジュエラーのほとんどは自分自身の勘と経験だけを頼りに、鑑別やグレーディングを行っていました。そんなおり、小売りのジュエラーであり理想家であったロバート・M・シップリーは、 宝石に関する短期講座を南カリフォルニアで行い、 GIAを設立するに至ります。
GIAの設立によって、現在国際的に求められているダイヤモンドグレーディングとその品質表示方法として用いられる、いわゆる「4C」が誕生します。
この「4C」の基礎を作ったのが、ラザール・キャプランです。ダイヤモンドのカラーグレーディングに使われる最初のマスターストーンにラザール・キャプラン社のダイヤモンドが採用されました。これら多大なる貢献から、キャプランはGIAの名誉副会長に任命されることとなります。
これが、ラザール・キャプランが世界中の名門ジュエラーからの厚い信頼を得ている理由なのです。

Chapter 7 What Lazare Kaplan left us. ラザール・キャプランが遺したもの。
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「いつも正しい行いをすることだよ」ラザール・キャプランはこう言い遺しています。
ただひたすら最高に輝くカッティングをダイヤモンドに施すことに打ち込んだラザール・キャプラン。黄金比率や白銀比など、自然界には神秘的な美しさが存在します。彼が最高の輝きを放つカッティングにこだわったのは、美しさの向こう側にある自然への畏怖、そして悲劇的な経験ゆえに実感したまわりの人々への深い感謝の念があったのではないでしょうか。

"If you do to others like you do to yourself…that is how you get friends."
「自分に対するように人と接すること…人に正直であればいい友に恵まれる。そうして友達の輪は広がる」
これもラザール·・キャプランが遺した言葉です。彼はいつも多くの人に囲まれていました。

プエルトリコの工場を作ったときも、外国からやってきたキャプランのまわりには、たくさんの人がいました。
彼のダイヤモンドに対する情熱、一途でひたむきな姿勢を目の当たりにした人々は、みな彼を慕わずにはいられなかったのでしょう。 従業員の中には、キャプランを「お父さん」と呼ぶ人までいたのです。

90歳半ばになってから、ラザール・キャプランはりんご果樹園を始めました。 業界のパイオニアとして、挑戦を続けたキャプラン
は、引退後も新たなチャレンジを始めたのです。
この果樹園にも、息子や友人が彼を慕って集い、キャプランはたくさんの笑顔に囲まれて、穏やかな余生を過ごしたといわれています。
ラザール・キャプランが遺したものは、ダイヤモンドに最高のカットを施すことにとどまらず、人々に幸せと、笑顔、そして希望と
いう人生の輝きを与え続けることだったのではないでしょうか。